台湾 高雄 釈 瑞覚師 法話(二)

野瀬瑞黙先生 一周忌法要
平成24年10月27日(土)午後1時 淨教寺本堂

(法話) 台湾 高尾 法雷寺 住職 釋 瑞覚尼 (二)

佛教と、キリスト教とはどう違いますか?

これは稲垣瑞劒先生の教えですが、佛教には、「禅定」があります。
世界の中に、宗教が沢山ありますけれども、「禅定」を持てる宗教は佛教しかないです。

何故「禅定」が大事かというと、時間を超えて、空間を超えてこの「禅定」が、「無我」の境地に入るのです。
私達は「我執」の存在ですから、「無我」の素晴らしさを味わう事が出来ないのです。 頭で、研究で、「無我」が素晴らしい、「無我」になったら悩みが無い、ということが分かります。概念で分かる事が出来ますけれども、実際にその「味」といいましょうか、その状態を知る事はちょっと難しいです。

この「無我」から「智慧」が出て来るんです。
だからお経、一切経ですね。 お経は皆、お釈迦が禅定に入られて、禅定の中で説かれた教えです。
だから、佛教の教えは、真理そのものです。真理とはいつでも、どこでも、変わらない!時間、空間を超えているのが、これが真理です。ほかの宗教はこれが無いですよ。これが一つ目の特色です。

二つ目の特色は、佛教は、人間が、佛になる事が出来るんです。佛になる教えが、佛教です。けれども、他の宗教は人間が神になる、神様になるという教えが無いです。これが、佛教とキリスト教との一番の違いです。

それと三つ目が、佛教は「因果」(善因善果・悪因悪果、自業自得)を説くのです。
迷悟染浄の因果を説くのは佛教です。ほかの宗教はこういうものを説かないです。

皆、神様を中心にして神様に従ったら助かる。神様に従わなかったら、助からない。ほとんど皆、そういう教えです。けれども、佛教はそういう教えではないのです。人間は誰でも禅定に入られたら、佛様と同じ様な智慧がもらえるんです。だからこの智慧が佛様そのものです。

この智慧は、佛様だけのものではありません。佛様と同じ道を歩んだら、この智慧と一体になる事が出来ます。これは、佛教とほかの宗教との違いです。

佛教の中でも自力の教えと、他力の教えがありますが、浄土真宗は他力の教えです。何故、他力が大事かと云うと、凡夫は自力だったら限界があります。この限界を親鸞聖人が、身をもって教えて下さいました。

参考:禅定(ぜんじょう)は、心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。

「弥陀の名号となへつつ  信心まことにうる人は
憶念の心つねにして  佛恩報ずるおもひあり」
親鸞聖人『浄土和讃』

これは稲垣瑞劒先生が、『浄土和讃講讃』でお話しされたものです。
「親鸞聖人はどう云うお姿をされていますか?」と。
「親鸞聖人は『弥陀の名号となへつつ、(略)憶念の心つねにして 佛恩報ずるおもひあり』いつも、常に、こういうお姿をされていたのです。」 で、これを聞いて、自分の姿を見て、この通りになってますか?
なってない?なってない訳がありません。なぜなら、私達が出来ないことを、御開山様(親鸞聖人)が教えて下さるはずがありません!

それならば私のどこかが間違っているのです。
そこが分からないと、一人ぼっちになってしまいますよ。

陝西省で、この、巻頭和讃のお話をしたら、あるお同行さんが、一生懸命、『南無阿弥陀佛。南無阿弥陀佛』・『弥陀の名号となへつつ』 文字から見たらその通りじゃないですか。
『南無阿弥陀佛。南無阿弥陀佛』。一週間、頑張ったんですよ。頑張った結果がその通りになれない。で、私は一週間、頑張ったんですが、『弥陀の名号となへつつ』、出来なかったんです。どういう訳ですか?
と、悩みを打ち明けられました。

若しその様に、この巻頭和讃を思われたら、親鸞聖人が泣くのですよ。

毎日の生活を通してね、自分の心が見せられて来るんじゃないですか?いろんな因縁によって。私達は因縁の存在ですからね。毎日、出て来る縁、因縁が違うのですね。だから毎日、自分の心も、変わる。変わりどおしですね。私達は業縁の存在です。業縁によって、私達の心が常に変化させられるのです。

日常生活が大切です。だから、佛法は生活から離れたらいけないのです。日常生活を通して、自分の心がいろんな因縁によって、業縁によって、見せられて来るのですね。で、見せられて来る度に、こういう私でも、阿弥陀様が、見捨てて下さらない。
それが『弥陀の名号となへつつ』という事ですよ。『憶念の心つねにして』という事ですよ。『佛恩報ずるおもひあり』という事ですよ。

『弥陀の名号となへつつ』とは、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。 朝から晩まで、称えることをさしているのではないですよ。

良い心が現われて来た時に、『おかげさま』です。 南無阿弥陀佛。南無阿弥陀佛。
悪い心が現われて来た時に、『勿体ない』。こんな私でも、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。これですよ。

そこを、善導大師様は、『念念称名 常懺悔』と、おっしゃられました。
私達、凡夫の出来る事は、唯、『慚愧』と、『勿体ない』ですね。『感謝』です。
だから『仰いでは讃嘆、伏しては慚愧』これしかないです。

皆様にお話ししたい事は山ほどございますが、でも、本当に、人間に生まれて、野瀬瑞黙先生が伝えられている浄土真宗のみ教え、『法雷轍』の教えに、会う事が出来た事は、本当に幸せな事です。本当に先生に感謝しております。

2012年12月01日 法話
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