台湾 高雄 釈 瑞覚師 法話(一)

助からぬものが 助かる

野瀬瑞黙先生 一周忌法要
平成24年10月27日(土)午後1時 淨教寺本堂
(法話) 台湾 高尾 法雷寺 住職 釋 瑞覚尼

野瀬先生が亡くなられたことは悲しいですが、不思議なことに、先生の法身がずっと無碍の光明と一緒になって私たちを照らしてくださっていることを実感させられています。この一年間先生のご恩徳を思わない日はありません。そんな中で、一番感じさせられたことは、

「難思の弘誓は難度海を度する大船。
無碍の光明は 無明の闇を破する恵日なり。」

これは、先生がつねにおっしゃって下さったことばです。これはただのことばではないのです。これは真実そのものです。
不思議なことに、このお言葉からよろこびと望みをいただくと同時に、あたたかく私たちに光を与えて下さいます。
先生にお会いしてこのお言葉に出会って、はじめて自分が「難度海」であり、「無明の闇」であることを知らされました。

稲垣瑞劔先生が、『法雷』誌260号から始まっている「浄土和讃講讃」の中で「助からぬものが、助かる」「助からぬものが、助かる」とたびたびおっしゃっておられますが、それを漢文で書きますと、「無有出離之縁(出離の縁あることなし)」と善導大師さまはお示しになります。
(参考:二種深信の文「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなしと信ず。かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。」)

お聴聞をして、「絶対助からないものであるぞ」と、日常生活を通して凡夫の姿を見せられ、知らされていくのです。
しかし、いくら仏法を聞いても、何も変わらないと自分自身で点数をつけてしまいます。一人で点数をつけて一人で悩んでいます。
私たちが聴聞をしても、無碍の光明の中におりながら、自分が難度海であり、無明の闇であることを忘れて、これだけ聞いたからと自分で自分を採点して助かる助からないを判断して、自分で悩んでいる。無碍の光明の中におりながら一人でさみしい思いをしているのが私の姿です。本当に勿体ないことです。
私たちは、南無阿弥陀仏のすがた、おいわれをずっと教えてもらっているのですが、自分で自分に点数をつけているのです。だからいくら聴聞しても落ち着かないのです。自分はどこにいますか?「阿弥陀さまにかついでもらっているのですよ。」(上写真 参照)

自分が無碍の光明の中におりながら、阿弥陀さまに抱かれていながら、真実を見る眼がなく、真実を聞く耳がないのです。そこを、お経の中には、「無眼人・無耳人」または「眼が有っても牛か羊の眼しかない」と表現されています。
無碍の光明の中におりながら、自分に目玉がないものですから、阿弥陀さまに抱かれているにもかかわらず、自分が無碍の光明の外に一人で飛び出して、自分が見た世界が全てであると思って一人で自分のすがた、こころを見て、点数をつけて自分の思いどおりになったら喜び、ならなければ悩む。自分で自分に点数をつけて悩んでいるのです。
そこを源信和尚は「思っても、思わなくても妄念」とおっしゃいました。
「凡夫の自体は妄念しかない」これを無始以来今日までずっと続けているのです。だから本当の阿弥陀さまの慈悲に会っても、また一人でさびしい思いをしているのです。本当に勿体ない事です。

善導大師は「汝一心正念にしてただちに来れ」とおっしゃておられます。
それを、瑞劔先生は「おねがいだから、そのまますぐに来ておくれ(池山栄吉師のことば)」と、教えてくださいました。私たちが、阿弥陀さまにたのまれているのです。けれどもそれをずっと知らなくて、一人でさみしい思いをしているのです。

台北の法雷会で、ある女性70歳代のお同行さんが、がんの末期で入院されました。それまで熱心な方で、元気でお聖教を読んだり、お念仏を申しておられました。ある時お念仏をおとなえした時に仏さまが光明を放ったことを見たことがあり、、その経験があったから自分は信心決定しました。ということを言っていました。しかしそれは浄土真宗の正しい安心(あんじん)ではありません。それを話してあげようと思いましたが、向こうは私より年配ですし、仏教の道を60年間歩んでおられましたから、伝えようとしても言いづらいところもありました。が、言うべきことを言わないと講師として失格ですから思ったことをお話したのです。

がんの痛みで、いままで聴聞してきた法のことばや仏さまのことが一切がっさい吹っ飛んでしまって、有るのは痛みだけ。寒気がして、吐き気がひどい、そういう一番苦しい中で、野瀬先生のお声が聞こえてきたのです。どういう言葉かというと、「業は受けるものですよ。」
これが、野瀬先生が初めて台北でご法話された時のお言葉ですね。この「受ける」のお言葉が心の底に入った瞬間に本当に不思議なことですが、相変わらず痛みが走っているのですが、この痛みが苦でなくなったのです。二週間かかる治療が、一週間で済んで退院されたのです。

そして彼女はお同行さんの前で自分の体験を懺悔されながら、「自分が間違っておりました。仏さまの光明を見たという思い上がりで、自分は回心して信心決定したのだから、こんな痛みや苦しみはやってくるはずがない。私はこんな苦しい目に会うはずがない。ということが心のどこかにあったのです。でもその苦しい最中に〝業は受けるものですよ。〟これが心に響いてきたのです。」と、話されました。何年か前に先生が台北でされたお話の内容が、それが活きてきたのですね。だから聴聞って不思議です。不思議な力を持っています。聴聞したら絶対に無駄なことがありません。それが今回の体験で思い知らされました。

彼女が「汝一心正念にしてただちに来れ」のことばを聞いて、「瑞覚さん、私は、仏道を歩んで60年。南無阿弥陀仏に出会って60年間、でもはじめて私は阿弥陀さまにたのまれていることを知りました。」という告白を聞かされて、私もすごく感銘を受けました。
こんな私でも、阿弥陀さまにたのまれている。阿弥陀さまから願われているのです。

先生がはじめて陝西省に来て下さった時に話されたご法話が、
「みなさまは何を聴聞されますか?」
「仏さまとはなにか?」これを聴聞するのですよ。
「凡夫(私)とはなんですか?」これを聴聞していくのですよ。
「仏さまとはなんですか?」「凡夫とはなんですか?」これがわからなかったなら阿弥陀さまのお慈悲が入ってこないですよ。これが最初に先生が陝西省で教えて下さった真実です。

その仏さまがわからないために、阿弥陀さまを軽く見てしまうのですね。その阿弥陀さまを軽く見ている証拠が、自分が自分の心の動きを見て自分で点数をつけて、自分が朝晩のお勤めも一生懸命して、毎日聖典を読んでいる間は、阿弥陀さまとの距離がすごく近く親しく感じるけれども、人間は怠け者で、おつとめをしていません、聖典を拝読していません。ということになると、阿弥陀さまが助けて下さるだろうかと不安な気持ちになって自分で自分の日常を見て、自分で自分に点数をつけるのです。それが、阿弥陀さまから離れてしまっている証拠ですね。自分がこの大きなお慈悲の中に居りながら一人で飛び出してさびしい思いをするのですね。

どういう気持ちを持つべきかというと、蓮如上人の『御一代記聞書』にあります。懈怠の心が起こったら懺悔。よろしくない心が起こってきたら、無碍の光明のおかげで慚愧の心が出てくるのです。それと同時にもったいないという心が現われてくるのです。これが本当の真宗のご安心(あんじん)です。(後略)

みなさまにお話したいことは山ほどありますが、本当に人間に生まれて野瀬先生に出会えて、先生が伝えられている浄土真宗のみ教え、法雷轍の教えに会うことができたことは本当に幸せなことです。先生に感謝しております。
この通りです、私が先生からいただいたお慈悲を中国の皆様にありのままに伝えさせていただいております。安心して下さい。浄土真宗のみ教えは先生が中国で種をまいて、その芽が次から次へと出てきています。仏法が繁盛しております。みなさんどうもありがとうございました。(法話要旨)

(参考:『御一代記聞書』(223)「信のうえに、とうとくありがたく存じよろこびもうす透間に懈怠申すとも、かかる広大の御恩を、わすれもうすことのあさましさよと、仏智にたちかえりて、ありがたや、とうとやと思えば、御もよおしにより、念仏を申すなり。」)

2012年11月01日 法話
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