大谷探検隊

特別展「仏教の来た道-シルクロード探検の旅」
京都、西本願寺前 龍谷ミュージアムにて7月16日まで開催中。

今から110年前の1902年(明治35年)に西本願寺第22世となる大谷光瑞師(25歳)によって組織された探検隊が「大谷探検隊」です。
明治の仏教界は大変な危機に面していました。明治初年の廃仏毀釈は仏教各宗に大きな打撃を与えたと同時に、仏教復興の強い念を起させる大きなきっかけとなりました。
西本願寺第21世宗主大谷光尊・明如上人(大谷光瑞師の父)は、沈滞する教団を活性化する奇策として西洋の教育制度を取り入れ、人材の育成に乗り出しました。
仏教研究においても、新たな潮流が起こり、原典研究として西洋でサンスクリット、パーリ語の仏典研究が盛んになっていました。本願寺も西洋に留学生を送り研究成果を取り入れようとしていました。
また、仏教伝来の中央アジアの歴史的地理的解明が進みつつあり、かつてアジア一帯に広まっていた仏教、そしてその仏教を支えていた人々の情熱、それらを調査し当時の社会に知らしめようとした大谷光尊師の先見性を受け継いだのが長男の大谷光瑞師の「大谷探検隊」でありました。

大谷探検隊の概要は、第1次(1902年 – 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞師自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行しました。光瑞師はカシュガル滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、永らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定しました。渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査しました。別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながりました。
第2次(1908年 – 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれました。野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査しました。有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られます。
第3次(1910年 – 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集しました。
その規模は、世界各国(スウェーデン・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ)が調査したどの国のものよりも広範囲なものであり、探検に加わった隊員も10代から20代の若き僧侶たちで、その苦労の足跡と成果がこの度の特別展で詳しく展覧することができます。

大谷光瑞師が中央アジアに対する学術的調査を実行する機会をつかむことができたのは、彼がロンドンに留学していたからでありました。
スウェーデンのヘディン、イギリスのスタインらの西域での活躍は、ヨーロッパの新聞や雑誌に報道されていました。また、ロンドンの王立地理学会は世界中の地理学上の情報マーケットでした。1900年当時、大谷光瑞師と本願寺の先鋭的な若き僧侶たちはロンドンに留学していました。光瑞師はその留学の帰途を利用して西域探検の一端を達したいと思ったのでした。
その時の思いを光瑞師は

明治35年(1902)8月、私はたまたまイギリスのロンドンに遊び、日本に帰ろうとした時、ふとこの帰途を利用して私の意志の一端を達すべきであると考えた。そこでついに決心して、自ら西域の聖蹟を歴訪し、別の人を派遣して新疆の内地を訪れさせた。

と、語っておられます。
また、大谷探検隊の特徴は、他の諸外国の探検隊が美術資料収集や地理情報収集を主眼に考古学、人類学、古代言語学的にアプローチしたのに対し、インドから日本への仏教伝来の道を明らかにすることを主目的とした仏教徒としての仏教的アプローチであったということです。
光瑞師は「西域考古図譜」の中で

おおよそこの前後三回にわたる探検において、私がその目的としたところは決して少なくない。
しかもその最大の眼目は、仏教東漸の経路を明らかにし、昔シナの求法僧がインドに赴き遺跡を訪ね、また中央アジアがイスラム教徒の手に落ちたために仏教の被った圧迫の状況を考察するような、仏教史上における諸々の疑問を解こうとするものであった。
第二に、中央アジアに遺存する経論、仏像、仏具等を収集し、もって仏教教義の研究および考古学上の研究に資料を提供し、もし出来うれば地理学、地質学および気象学上の種々の疑問もあわせて氷解させたいと考えたのである。

と、記しておられます。
龍谷大学教授・龍谷ミュージアム副館長の入澤崇さんは、「シルクロード探検の旅へ―大谷探検隊の軌跡―」の中で、

大谷探検隊が調査した範囲はどの国の探検隊よりも広い。仏教が伝播した領域はとてつもなく広いことを大谷光瑞は見抜いていた。彼は世界史のなかで仏教の動きを捉えようとしていたのである。当時、どれほどの日本人が世界を深く認識しようとしていたであろうか。ユーラシア大陸中央部にかつて文明の胎動があったことは、いまやっと歴史学が証明するようになりつつある。広大な文脈のなか、実証という手法で、文化・社会・宗教を理解しようとした大谷探検隊。その手法に稚拙な点があったことは否めないにしても、彼らが目指そうとしていた地平はいまなお光輝を放つ。大谷探検隊の遺産は数多い。なかでも、世界をあるがままに見据え、どんな困難にも立ち向かっていく気宇壮大な精神こそ、大谷探検隊が現代人に遺した一番の遺産ではあるまいか。

と、文章を結ばれています。
ぜひこの特別展で、大谷探検隊の存在を認識していただき、残された多くの功績を確認し、ご縁のある多くの方々にお伝えしていただきたいと思います。

2012年06月01日 法話
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