福島県・相馬市、宮西さま・澤田さまよりのおたより

冴え返り冴え返りつつ春半ば

泊雲 宮西久枝

三月になっても今日は小雪。でも心なしか樹々にも活力が感じられゆっくりとした足どりながら 春は確実にやって参りました 私共も皆様のお陰で元気を取り戻しております。
奈良でも皆様御元気で仏法のための御生活かと存じます。
扱て此の度またまた御院主様はじめ護持会・門信徒会・仏教婦人会の各会様から多大の御見舞を頂戴し、勿体なく有り難く心より厚く御礼申し上げます。
また尊い法のお書きものやテープ、さらに子供会の皆様からのお優しいお手紙等々春の陽射しのように暖かきお心をいただきうれしゅうございます。
大分以前に前住様より百巻余の瑞劔法師様のお声のテープ、お墨跡の色紙や御書、等々をいただき私の宝物として大切にして参りましたがすべて津波により流出してしまいました。被災後、書物等を御恵送いただき、今回またテープを頂戴いたし有難く拝聴させていただいております。法務御多忙の中、私ごときに仏法を届けたいとの御念願を強く感じております。
かえりみますと、はじめて御縁をいただいたのは昭和六十一年元旦と記憶しておりますから、はや二十六年ということになります。その間絶ゆることなく御教化をたまわりました。その上、今回の災害に対しましては御院をあげての御支援、それは法の上においても御配慮をいただきました。身に余るよろこびでございます。
また子供会のみなさまからも心優しいお心こもるお手紙をいただき、春の風のようなよろこびが身を包みます。淨教寺様との御縁を有難く改めて感じ入っております。浄土真宗のみ教えをその本来のすがたを正しく御伝えいただけるという御縁はめったにございません。残る人生生かされたいのちあるあいだ、この御縁を無にすることなく求めさせていただきたいと、改めて思っております。
子ども会の皆様にも別便にて御返礼のことばを書きたいと思っております。
はや一年を経過しますが原発の問題もまだ終息に到ったとは言えず、地震・津波等の跡もまだ生々しい現実ではありますが、この災難にあったからこそ人としての大切な心のありようを知ることにもなりました。人の心がこんなにも暖かいということを知ることができました。そして無量寿という永遠のいのちについても考えるようになりました。
これからも何卒よろしく御化導くださいますようお願い申し上げます。
そろそろ「はなまつり」の御準備かと思われます。地理条件を生かされ、世界の人々にみ仏のお慈悲を伝えるイベントに毎年多くの方々が御参りされている様子を想像いたしております。どうぞ御法体大切に御活動下さいますよう念願いたします。
末筆になりましたが御院内皆々様御門徒様によろしく御伝え下さいませ。

御礼まで
合掌

三月四日 宮西久枝

 


淨教寺子ども会のみなさん。

宮西久枝

おてがみをありがとうございました。おかげさまでわたくしも元気ですごしています。
ひなんを終えてまた相馬市というとこにろもどることができました。
きのうから雪がふりつづき十五センチくらいつもりましたが、放射能を心配してか外で遊んでいる子の姿はみられません。ここは原子力発電所から四十キロくらいはなれているので今のところはそれほで心配しなくてもよいようですが、やはり心配なのでしょう。
私のこんどのおへやは太陽が出れば暖ぼうもいらないくらいポカポカとあったかく、おひさまはありがたいなあ、と思います。これからはこのような熱を利用する太陽光発電や水力発電、地熱発電など自然エネルギー利用をもっとさかんにしたらよいと思います。
みなさんも勉強していろいろな発明発見をしてください。
ところでまもなく三月十一日がやってきます。私にとってはおそろしい日であり、悲しい日であります。とりわけ幼いいのちがなくなったことは本当にざんねんでなりません、かわってあげることはできませんでした。
みなさんはまだ考えたくないかもしれませんが、人はいつかは死んでいかなければなりません。何百歳も生きた人はいません。でも仏教では「死ぬ」とはいいません。「生まれる」といいます。どこに生まれるのかというとお浄土というすばらしいくにです。人間にはそうぞうもできないほど美しい光かがやくおくにです。そこに生まれて仏さまになります。
往(い)って生(う)まれるから「往生(おうじょう)」といいます。そのおくにで阿弥陀如来様やたくさんの仏さまとお会いします。先に生まれた、たくさんの仏様ともお会いします。
澤田さんの「かえる」のお話で二ばんめの「かえる」のところです。そこはもともとわたしたちのいえですから、そこにかえる(・・・)のですね。
そこに生まれた人は、もう死ぬことのない「かぎりないいのち」をいただくのです。美しい池やはすの花、ほう石でできたりっぱなたてもの、ほう石の林などがあるすばらしいおくにです。でもね、そのようなよいところでいつまでもすごしているか、というと、そうではありません。また、くるしみのくににかえってくるのです。苦しんでいる人々がたくさんいるのに、自分ばかり楽しくくらすことはできないからです。
苦しんでいる人々をたすけるために、また「かぎりないいのちのくに」のあることを知らせるために、またこの世にかえってくるのです。「かえる」のお話の三ばんめのかえる(・・・)がこれです。
みなさんからおてがみをいただくといつも心がほんわかとあったかくなり、うれしくなります。わたしは子どもが大すきです。いっしょに仏様のおはなしがききたいですが、足やこしが悪いので行かれません。
またみなさんのおてがみをよみたいです。元気で三がっきをすごしてください。

宮西久枝より
淨教寺子ども会の皆さんへ

 


カエルの話 澤田悌二

澤田さんの家の小さな庭に、小さな池があります。今は落ち葉でおおわれていますが、春になると、どこから来るのかわかりませんが、この池に、たくさんのカエルの卵が産み落とされ、そしてやがて、小さなオタマジャクシが池いっぱいに泳ぎはじめます。しばらくして大きくなって、手足が生え、そして小さな「アオガエル」になって、庭じゅうに遊びにでかけます。
とてもかわいいアオガエルで、おじさんの手にぴょんと乗ったり、肩に移ったりします。おじさんはカエルさんと、友達です。
カエルさんは、とても大切なことを教えてくれます。
一つは、出掛けた時、「無事かえる(帰る)」こと。
二つ目は、人はあみださまのお陰で、「かならず、お浄土へかえる」こと。
三つ目は、お浄土へ往ったら今度は、あみださまと一緒になって此の世に「かえって来て」大切なはたらきをすること。(「還相回向」という)
澤田さんはカエルさんを見るたびに、この三つのことを教わって「ありがとう」といっています。

南無阿弥陀仏 澤田悌二

 


阿弥陀様の方から私になり切って下さって、離れても下さらぬ。
(瑞劔法師・法雷誌・高僧和讃講讃21)
春とは名のみの不順な日が続いておりますが、御慈光のもと佛恩報謝でお過ごしのことと拝察申し上げます。
淨教寺さまには、常に、更には今回の東日本大震災に際しまして、遠く離れた宮西さん、わたくしにまで、住職様、御前住職様はじめ御寺族、御門徒、関係の皆々様方に、温情あふれるおこころを、数度に及び尊い教えと共に、貴重な御見舞金のご援助までそえてお寄せくださいまして、衷心より御礼申し上げます。
これは不思議なことでございます。「広大無辺、如来様のお慈悲のおはたらき」としか思えません。
ご恩によりまして、帖外和讃の「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」の聖人様の世界に住まわせていただいております。
福島県の場合は、放射能の災害が加わって、一年経過して、ようやく事態の深刻さが明らかとなってまいりまして、原発の周辺の市町村は、恐らく故郷に帰れない状況が大であり、相馬市は隣接ですので、その方々の痛みをひしひしと感じとれます。相馬の沿岸にさえ立つことを未だに躊躇いたします。
往相還相の回向に もうあわぬ身となりにせば
流転輪廻もきわもなし 苦海の沈淪いかがせん
淨教寺さまのお励ましのお陰で、このような御和讃のひとつひとつに、改めて出あわせていただく毎日でございます。
すべては佛恩でございます。このような御恩に報謝申し上げるすべも知らず、「瑞劔法師さまの南無阿弥陀仏」念仏偈(前住職さまよりの)を、淨教寺御住職さまのお手を通し、御礼の気持ちとして、お届けさせていただきます。 幾重にも御礼申し上げます。 ありがとうございます。
合掌

平成24年3月18日
澤田悌二

 


(「瑞劔法師さまの南無阿弥陀仏」【念仏偈】は次ページに一部掲載。ご希望の方には、差し上げますので、淨教寺までお申し出ください。)

宮西久枝さま、澤田悌二さまのお手紙に、ただただ感動しています。大きな大きな困難に出会い、いかんともしがたい状況の中で「仏法のみぞまこと」、「念仏のみぞまこと」の体験を、味わいを語って下さるそのおすがたに、下がらぬ頭が素直に下がります。
カエルを通して、子供たちに、そして大人たちに、生まれる世界のあること、この世にもどって、導いていく世界のあることをやさしい言葉であらためて教えていただきありがたいことです。
「一切 すべて 南無阿弥陀仏」と、澤田さんは、すべての事象に南無阿弥陀仏がやどり、南無阿弥陀仏の顕現がすべての事象のあらわれであると、味わっておられるそのおすがたに学ばせていただくところ大なるものがあります。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万のこと、みなもってそらごとたわごと、まことある事なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」との親鸞聖人のおことばが、胸にせまります。(住 職)

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり

(意味)世に超えすぐれた阿弥陀仏の衆生を救うという悲願を聞いてから、
六道輪廻という生き死にを繰り返す凡夫であり、
穢れ多い我が身であることには変わりないが、
心は極楽浄土に在るのと同じなのである。

往相還相の回向に もうあわぬ身となりにせば
流転輪廻もきわもなし 苦海の沈淪いかがせん

(意味)阿弥陀如来の往相・還相の二種の回向にあうことができなかったなら、
私たちはいつまでも流転の苦しみを続けねばならない。
生死の苦海に沈むのをどうすることができようか、どうすることもできない。

2012年04月01日 法話
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