淨教寺24世島田義昭法師27回忌

『淨教寺本堂 再建の足あと』 義昭法師 誌より

昭和11年1月26日午前2時頃、耳をつんざく「本堂火事や!」の声に、呼び起されびっくりして廊下に飛び出た途端、物凄い音とともに既に妻虹梁から大きな火焔が吹き出ていた。その時の衝撃と心の動乱は、全く他に譬えようもなく、一瞬その場に茫然として立ちすくむ思い、母の声で直ぐ本堂に走ったが、既に内陣は火の海、本尊様には手をかけたが火の強さに頭の髪がちりちりと焼け、遂に引き降ろすすべもなかった。

その時の火は熱いというより痛いといった感じだった。もはや万事休すの思い、外のものは何一つ持ち出す気になれなかった。さらに119番に電話して門を開けたことまでは覚えているが、その後は20台前後の消防車と、多数の消防手、警察官の活動と大棟が焼け落ちる轟音、その間、ただそれらを見守るほか放心状態であったように記憶している。

原因は平素お世話になっている先生に頼まれて、しばらく預かった高校生の火の不始末からであった。不慮の失火とはいえ、一瞬にして本堂が悉く炎上するという一大痛恨事に遭遇した次第。

春寒(はるさむ)し 我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅうふけ)

早速この一句を当寺東京築地別院におられた工藤義修師からいただき、この本堂再建こそ私の終生の大使命であることに、この時点で肝に銘じたことである。(工藤師はその数年前、同じ難に遭われた由を後で承ったことであった。)

 

義昭法師 略歴

昭和4年 高取町兵庫 教恩寺より入寺
昭和11年1月26日 本堂焼失
昭和12年 日中事変 7月応召 激戦地を経て
昭和14年 秋、無事帰還
昭和16年 4月8日 御本尊 お迎え
昭和16年 11月23日 起工式
12月8日 第二次世界大戦勃発
昭和19年 1月13日 上棟式
昭和20年 8月15日 終戦
昭和22年ごろ 屋根瓦工事
昭和24年 本堂工事 伸和建設・北尾棟梁より寺へ引き渡し、内陣工事に着手
昭和43年10月19日 本堂落慶慶讃法要
昭和60年 欄間金箔工事完了 これで義昭法師の思い描いておられた本堂完成
昭和61年3月18日 寂 享年80歳

本堂焼失、そして再建へ・・・・門信徒へのご恩返しは、一人でも多くの方々に浄土真宗の真髄、ご安心を獲得していただくことであるとの思いから、毎月ご高徳の先生方をお呼びしてお聴聞の機会を数多く企画されたご生涯でありました。

 

六十八年ぶりの棟札

(本堂耐震工事のための調査で発見・上写真)
棟札とは建築物を新築するときに棟木と呼ばれる建築物の屋根の一番高いところに使われる部材に取り付ける木の札です。上棟式(棟上げ式)の際に取り付けます。正式な棟札は「ミズキ(水木)」と呼ばれる木材で作り墨書します。「水」は繁栄を意味し、本堂に集う人々の繁栄を念じ、火事から建築物を守るといった意味合いがあります。

棟札のことば(左から2枚目)
天下和順 日月清明 風雨以時
奉再建 浄教寺 本堂一宇
災厲不起 國豊民安 兵戈無用

棟札のことば(左)
佛力顕現 信力結集 大東亜普請
佛の力を顕現し 信の力を結集して
大東亜に普く請う

読み方
天下(てんか)和順(わじゅん)し、日月(にちげつ)清明(せいみょう)なり。風雨(ふうう)時(とき)をもってし、
浄教寺本堂一宇(いちう) 再建したてまつる
災厲(さいれい)起(おこ)らず、國(くに)豊(ゆた)かに民(たみ)安(やす)くして、兵戈(ひょうが)用(もち)いることなし。 『仏説無量寿経』下巻より

意 味
仏が衆生済度のために巡り歩かれるところは、国や地方の町、人々の住む村など、どこでも教化にあずからないところはない。世の中は平和で、日も月も清く輝いて、天候も穏やかに五風十雨のときを得、災害や疫病も起こらず、国も豊かに栄え、民衆は安らかに暮らし、兵士や武器が不要になり戦争も起こらない。人々はたがいに尊び思いやりながら、つとめて礼儀を重んじ、たがいに譲り合うのである。

2012年03月01日 法話
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