西本願寺 親鸞聖人750回大遠忌法要 御満座

昨年4月9日から西本願寺・御影堂にて勤められた「親鸞聖人750回大遠忌法要」が、1月16日ご満座を迎えました。65日間115座の法要に西本願寺をはじめ、日野誕生院、角坊、大谷本廟などへの参拝を含めた総参拝者数は143万人を超えました。

淨教寺参拝団も4月14日と11月12日の2回、約300名の方々が参詣されました。また、個人的にご家族で参拝された方も多く50年に一度のご勝縁にたくさんの方々がご縁を結んでいただきました。

この1月16日のご満座法要後に御門主様から「親鸞聖人750回大遠忌法要御満座を機縁として「新たな始まり」を期する消息」が発布されました。ここに一部要旨を掲載いたします。(全文は本願寺HP参照。または淨教寺まで。)

ご法要を無事円成できましたことは、佛祖のご加護と宗祖のご遺徳のおかげであり御同朋御同行の方々の報恩謝徳のご懇念のたまものと、まことに有難く存じます。東日本大震災をはじめ豪雨などの災害で被災された方々にお見舞い申し上げます。今回の原発事故は肥大した人間の欲望のもたらしたところであります。
聖人は、凡夫には清らかな心も真実の心も存在しないとお示しになりました。それは阿弥陀如来の光に照らされて明らかになる私の姿です。凡夫の身でなすことは不十分不完全であると自覚しつつ、それでも「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と、精一杯努力させていただきましょう。阿弥陀如来はいつでも、どこでも、照らし、よびつづけ、包んでいてくださいます。
本願念仏のご法義は、時代が変わり、社会が変わっても、変わることはありません。しかし、そのご法義が活きてはたらく場である現実の社会は、地域によって異なり、時とともに変わります。
歴史を顧みて、受け継ぐべき伝統を確かめ、創造的な活動を育てていかなければなりません。
一人ひとりが抱える課題を大切にし、お念仏を喜び心豊かに生きることのできる社会を目指しましょう。

 

「聞即信」 お聴聞を大切に

昨年10月より稲垣瑞劔先生の「人生と仏教」を小冊子にしてみなさまに読んでいただいております。2月で第5号となります。第5号は「迷信について」です。ぜひお読みください。ご希望の方は淨教寺までご連絡ください。
また、毎月20日の定例法話会にご参詣の方に『法雷』を差し上げております。こちらも毎月稲垣瑞劔先生の法味あふれるご法語がつづられておりますのでご拝読ください。

《『法雷』2012年1月号第421号より》
「高僧和讃講讃(天親菩薩)」一部抜粋

あんたら処世の法で聞きたい事あったら聞きなはれ、何なと云うてあげるわ。大体、皆、慈悲がないのや。
慈悲の眼に 憎しと思うものはなし 罪ある身こそ なお不憫なれ
といって、自分の心に慈悲があったら、憎いと思う人間は一人もあらへん、喧嘩する人間あらへん。阿弥陀様が喧嘩したということ聞いたか、阿弥陀様は慈悲の御方やで。
慈悲は聞くのでない、知っておるではいかん。聞いたり、知っておるという位のものは何にもならぬ。自分が慈悲深い人間にならぬといかん。これは学校教育でも家庭の教育でも及ばぬ所や。やはりお寺へ参って、お説教を聞いて、仏様のお慈悲を聞くというと、一遍聞き、三遍聞き、5年、10年と聞いてくるというと、何時の間にやら如来様のお慈悲が自分の身に映ってくださる。考えずして慈悲深い人間になるのや。慈悲深い人間になったら幸福が来るのや。

もう一つ大事なことは
驕慢の 天狗の鼻を へし折られ 愚痴にかえりて 往生す
驕慢とは、聞いたような顔をせぬのや、仏法を知ったような顔をせぬのや。それから善人なら善人顔をせぬのや。何も善い事は一生涯の中一つもしておりません、地獄の業ばかり造っております。というて、本当に心の底から頭が下がったのが、これが愚痴という。

2012年02月01日 法話
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