宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要も、第6期を迎え(11月9日から16日)今年の法要の締めくくりとなります。そしていよいよ来年1月9日から16日の御正忌報恩講で750回大遠忌法要の御満座となります。
この法要を御縁に「宗祖讃仰作法」が新たに制定されました。この作法の初めに勤められますものが「頂礼文(ちょうらいもん)」です。
南無(なも) 帰命(きみょう) 頂礼(ちょうらい) 極楽(ごくらく) 能化(のうけ) 弥陀(みだ)如来(にょらい)
頂礼文(ちょうらいもん)の頂礼とは「接足礼(せっそくらい)」とも言われ、インドの最高レベルの礼拝で、私たちが聞きなれている言葉では「五体投地」といわれるものです。これは、両手、両ひざを地面につけて、額をお釈迦様の御足にすりつけて敬う礼拝の作法です。
浄土真宗の法要では、内陣中央の礼盤に導師が登る時に柄香炉を持って腰をかがめて礼をして立ち上がるという作法(起居礼)を三回します(三拝)。これが、浄土真宗でいう「頂礼」という作法に当たります。
阿弥陀如来の大きなるお慈悲の前に頭を垂れてぬかずいていく謙虚な姿の最高の表現です。
日頃の合掌礼拝の作法もゆっくり丁寧に、お敬いの心を持ってさせていただきたいものです。
南無 帰命 頂礼
善導大師は「南無というは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはすなわちこれその行なり。この義をもっての故に、必ず往生することを得」といわれます。
それを親鸞聖人は、
しかれば「南無」の言は帰命なり。「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまうの心なり。「即是其行」というは、すなわち選択本願これなり。
(意味)そこで、「南無」という言葉は帰命ということである。「帰命」とは、わたしを招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである。「発願回向」とは、阿弥陀仏が因位のときに誓願をおこされて、わたしたちに往生の行を与えてくださる大いなる慈悲の心である。「即是其行」とは、衆生を救うために選び取られた本願の行という意味である。
と、解釈されました。
極楽 能化 弥陀如来
能化とは「教化するもの」という意味で、『仏説阿弥陀経』では、今現在説法(今、現にましまして説法したまう)と極楽浄土よりただいま現在説法をされる阿弥陀如来さまのことです。それに対して、教化されるものを「所化」といい、私たち衆生のことをいいます。
すなわち、「南無 帰命 頂礼 極楽 能化 弥陀如来」とは、
「私をかならず救うと、今現在、呼び続けておられる阿弥陀如来のお慈悲のはたらきに、こころからお敬いし、最高の作法で礼拝申しあげます。南無阿弥陀仏」ということになるでしょう。
親鸞聖人は、『教行信証』「行の巻」に元照律師の『阿弥陀経義疏』を引用されて、
まして、阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。そこで、この名号を耳に聞き、口に称えると、限りない尊い功徳が心に入りこみ、長く成仏の因となって、たちまちはかり知れない長い間作り続けてきた重い罪が除かれ、この上ない仏のさとりを得ることができる。まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、多くの功徳をそなえていることが知られるのである
と、示されています。
まことに、法要・お勤めとは、阿弥陀如来のお慈悲が私の体を透して、礼拝となり、お念仏となって、如来さまと私とが一つとなっている空間であります。この尊い、厳粛な空間を、私語や不浄なもので汚すことなく、精一杯のお花、お香、おロウソクで荘厳していくことは当然のことであることがお分かりいただけると思います。
この心構えを、「宗祖讃仰作法」の初めにお勤めしていくのが「頂礼文(ちょうらいもん)」です。
朝晩の礼拝には、阿弥陀如来さまのお慈悲の中にぬかずき多くの命に支えられ、生かされていることを喜ばせていただくということが大切です。
食事の時の、食前・食後のことばもその表れでしょう。今日から合掌し、食事のことばを申してからいただくようこころがけましょう。
新しい「食事のことば」
食前のことば
多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
食後のことば
尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
おかげでごちそうさまでした。