目に見えない世界の大切さ

4月8日 灌仏会(花まつり)によせて

奈良国立博物館 学芸部長 西山 厚先生

お釈迦様はお母様の右脇腹から生まれられたと言われています。珍しいことでめったにないことです。これは普通でないということです。それは難産だったと私は考えたいのです。すごく難産だったのです。お釈迦様は元気だったのですが、お母様は産後の肥立ちに苦しんで7日で亡くなられました。だから、お釈迦様は自分のお母様を知らないのです。
私は4月8日が来ると、いつもそのことを思い出して考えてしまいます。お釈迦さまがお生まれになった日であるとともに、お母様の苦しまれた日でもあります。そしてお母様は7日後にこの世を去られました。その後、お釈迦さまは人生でいろいろ悩み、やがて出家され、修行をして悟りを開かれました。お母様の苦しみも仏教誕生の出発になっていたのだなということを思います。

 

涙の分析

(浄土真宗 本願寺派 宗門学校用 「聖典」より)

諸君の見られるように、人間の涙を化学的に分析すれば、多量の水分と少量の塩分とに分かれる。しかし、母親の涙はけっしてそれだけのものではない。その奥には、分析してもなお分析しきれない愛情というものがあることを、諸君は忘れてはならない。

イギリスの化学者ファラデーのことばです。彼が学生に、「人間の涙」を分析してみせたとき、二つの試験官を学生に見せながら言ったことばです。
人間が涙をながすとき、かなしいとき、うれしいとき、くやしいとき、アクビをしたとき、目にゴミがはいったとき、タマネギをきるとき。
しかし、どんなときでも人間の涙は、ただ多量の水分と少量の塩分に分析されるだけ。
世の中には目に見えるものと、見えないものとがあります。そのうち目に見えるものは、大切にされます。物質文明がすごく発達したのもそのあらわれでしょう。
しかし目に見えないものは、忘れられるときがあります。ファラデーは目に見えないが、大切にされねばならない愛情を学生に教えました。
礼拝(らいはい)、朝、晩の礼拝の時間を通して、目に見えない「こころ」の勉強をしたいと思います。仏さまの前で合掌しながら、大自然の力に感謝しながら、人間同士が信じあい、協力しあい、平和な、幸福な社会を築くため、豊かな心を育てたいと思います。

 

高田慈昭先生 「善導大師をたたえて」

(4月20日定例法座法話より)

善導大師という方は、中国の唐の時代(初唐)の方です。その時代に中国において純粋な浄土の念仏の教えを大成された方です。特にわが国では法然聖人が「偏依善導一師」(ひとえに善導大師一師による)と善導大師一人のお師匠様の教えによって浄土宗を独立されたのです。親鸞聖人も七高僧のお一人として深く帰依しておられます。
初唐といいますと、古代の中国の文化が一番栄えた時代でありまして、ちょうど今、ここ奈良では大極殿が出来まして平城遷都1300年の記念のイベントが始まっております。この平城京の奈良の都は、善導大師の出られた唐の都をそのまま移されたものです。だから町の名前も、長安の都の名前がそのまま使われています。
日本の奈良文化、古代文化の基礎も中国の唐の文化がそのまま移っているのです。そういう面では中国の文化というのは日本の文化の大先輩です。
仏教の文化も唐の時代にはいろんな宗派がどんどん出来てきましたのも唐の時代からです。天台宗、三論宗、法相宗、密教、禅宗、華厳宗などいろんな宗派が出来ております。日本の仏教も最初は南都六宗といいまして唐から移されてきたのです。唐の文化というのは非常に栄えたものです。中国の歴史上でも一番長いです。約300年続きました。それまでは隋が約30年、その前は南朝北朝といろんな国が興亡を重ねておりました。それだけ安定した、文化の栄えた時代です。
長安の都は当時ヨーロッパや中央アジアからも出入りがありました。景教といえば今のキリスト教ですがもうすでに唐の時代に入っています。そういう意味で長安の都は当時世界最大の国際都市だったようです。
日本からも遣唐使として、奈良のお坊さんも長安で勉強して日本に帰ってきました。聖徳太子は隋の時代ですから少し前です。小野妹子を遣隋使として遣わしています。また、百済、高句麗の高僧を招いて仏教の勉強をして自らも『三経義疏』という立派な書物を書いておられます。

 

「平城遷都1300年を迎えるに当たり」

前住職

この度奈良で開催されます平城遷都1300年の行事は、高田慈昭先生のお話にもありましたように、善導大師の時代の中国の長安の都を移されたもので、立派に出来ました大極殿も朱雀門も中国の芸術、歴史、文化があのような建造物に表れているわけです。そしてその精神的根底である仏教がよくぞ伝来されたという、われわれ仏教徒の行事でもあるのです。
今、奈良国立博物館では「大遣唐使展」が開催されていますが、中国と交流しかけたのは1400年程前の聖徳太子の遣隋使の時代であると高田先生もおっしゃられましたが、その隋の時代にはもうすでに仏教が中国に入っていたのです。交流を始めた当時、中国では仏教が盛んだったのです。もしもその当時中国に仏教がなく、道教や儒教であったなら仏さまの教えは伝わらなかった。それが多くの方々のご苦労によって仏教が伝わり、芸術も共に伝わり飛鳥の都から奈良の都へと発展してきました。これは日本人が独自に作りだしたものではなくて仏教の大きな恩恵によるものです。
もう一つ、言葉もいただきました。漢字を頂戴しました。日本には文字がなかった。漢字からひらがな、カタカナを作り自国語として吸収していきました。お経が読めるということは昔の日本人が偉かったのだと思います。中心に仏さまの教えがこうして伝わってその文化がはなやいだ時代が1300年前です。仏教伝来の大きな恩恵を頂戴して今日の日本があるということを心に秘めて子孫にも伝えていくということが大切です。
仏教は最高の宗教です。仏さまの教えには「罰」「敵」ということがありません。「敵」と、もし思ったらそれは自分の心が敵を作っているのです。戦争のない平和な教えです。こういうことをぜひ伝えていく責任があります。

2010年05月01日 法話
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